転職、留学、独立、再転職、副業…紆余曲折の中で得た絶えることのない悩み

転職や副業に興味はあるが、不安で踏み出せない…そんな想いを抱えていませんか?

この記事は、街角キャリアメンテナンスでカウンセラーを担当、社会人のキャリアをサポートする村田喜直さんのインタビューです。

村田さんは転職や副業、留学等の経験でPRの専門性を高めてきました。順風満帆に見える彼自身も常に悩みを抱えながらキャリアを歩んでいます。

紆余曲折の20代。そして30歳からのジョブチェンジ。

−村田さんのこれまでのキャリアの歩みを教えてください。

新卒では長野県に移住し、地域づくりNPO代表として3年ほど活動。広告制作会社に入社した後、30歳でPRを学びに英国大学院へ留学し、帰国後はPRコンサルに従事。横浜DeNAベイスターズやN高校での広報PRの後に、個人事業主として独立。現在はITスタートアップでPR・ブランディングの責任者をしています。

−村田さんのキャリアの軸にもなっているPRに興味を持ったのはいつ頃なのでしょうか。

本格的にPRに携わりたいと思ったのは、第二新卒として入社した広告制作会社時代です。NPO時代の経験も活かし、CSRやサステナビリティに関するコミュニケーション施策の企画制作が主業務でした。当時はサステナビリティへの社会の関心も低かったので、広告業界で働いているのに伝えたいことが届かない、社会に広がらないことがもどかしかったです。また、ネットが普及し、SNSが人気になり始めた時代でもあり、広告宣伝的なアプローチが社会を動かす力を持たなくなってきたのではないかとも感じました。

そんなときに出会ったのがPR<パブリック・リレーションズ>という概念。いかに消費者に購入してもらうかという広告のような一方通行のメッセージではなく、PRでは消費者・NGO・行政・従業員…あらゆるステークホルダーに対してコミュニケーションを行います。そうして社会全体(パブリック)と良好な関係性(リレーションズ)を作るためのコミュニケーション業務がPRだと知り、社会に変化をもたらすことができる仕事なのだと思ったのです。

その思いを持ってイギリスの大学院でPRを学びに行き、帰国後はPRコンサル会社でPR戦略立案や実務の経験を積みました。30歳からのジョブチェンジでした。

急成長企業2社への転職成功からの勘違い独立…そして再転職と副業謳歌

−その後の転職では、なぜ横浜DeNAベイスターズへ転職を決めたのでしょうか。

PR職であることに加え、事業として「地域づくり」の可能性を感じたからです。大学時代の研究分野であり、新卒時代のNPOでも地域づくりに関わっていたため、「地域を元気にする」というテーマが人生を通した関心ごとでした。

入社当時、ベイスターズはDeNA新体制2シーズン目で、野球界、スポーツ界に新しい風を巻き起こすポテンシャルを感じていました。野球を通して横浜の地域づくりも担いうる存在だと捉えていました。球場は野球ファンが観戦するだけの場所ではなく、野球をテーマに地域のみんなが集まって地元愛やアイデンティティを感じられる場所になるんじゃないかなと。

実際に地域密着プロジェクトにも携わることができましたが、PR職としてそれ以上に大きな経験をさせてもらいました。最下位争い常連の不人気低迷球団から、球場はほぼ満員になり、新球団5年目には初めてAクラス入りし、業績も黒字化。ベイスターズの躍進はメディアでも頻繁に報道され、スポーツ界だけでなくビジネス界からも注目されました。

−横浜DeNAベイスターズからN高校への転職には何かきっかけがあったのでしょうか。

転職の軸は変わらず、地方創生とPRです。加えて、PR組織を一人で立ち上げられること。創業期の一人目の広報として、体制構築や戦略設計からアウトプットまで、ゼロイチの挑戦をしたかったのです。

N高校はネットの高校であることから、離島や過疎化が進み高校が無くなってしまった地域の子どもたちにもオンラインで平等に教育の機会を提供することができます。それは地方創生として大きな可能性を感じました。

ただ、設立当初はまだ世の中に受け入れられていない状況でした。まずは世間の誤解を解き、「N高ならではの教育」というブランドを確立することに注力しました。それはつまり、ネットやデジタルをフル活用した個別最適型の教育であり、遠隔教育による社会の教育格差の解消であり、固定化した教育界への新風というイメージです。保護者や教育関係者からの共感やサポートが増え、様々な生徒たちがN高で輝いていきました。今では生徒が2万人を超え、日本の教育界のなかで注目される存在になりました。ベイスターズとN高校で急成長環境に身を置けたことは、自分自身にとっても大きな糧となり、何より社会に変化を生んだという経験は、その後のメンタリティにも大きく影響しました。

−その後は、半年間の個人事業主を経て、ITベンチャーに入社されたのですね。

自分がやりたいと思える仕事を、自分で選びたいという理由で個人事業主として独立しましたが、情けないことに半年で断念しました。外部からクライアント企業に関わることの限界を感じたのと、組織の一員として得られる成長実感がこの先得られなくなるのかなと思うと、自分には向いていないなと考えました。

その後は再び事業会社に転職し、ITベンチャーの経営企画室で業務。その次の転職では社長直下の組織でマネジメント中心の仕事をしています。PR・コミュニケーション領域のスペシャリストとしての道を歩んでいくことも考えましたが、今はPRの専門性を持った上で経営の意思決定にも携わっていけるようなキャリア目指しています。

−転職を繰り返しながらキャリアアップをされていますが、村田さんが転職を続ける理由はありますでしょうか?

前提として、PRという職種の特性、つまり専門性の高いPR職はジョブ型転職がしやすいという背景はありますが、私のPRという仕事へのこだわりもあると思います。「人々の認識を変えて社会の変化を促すこと」にPRの醍醐味と理想を感じているので、コミュニケーション課題が多くて、成長や変化の伸びしろが大きい仕事がしたいと思い、一社に残るのではなくプロジェクトに参画する気概で転職を続けてきました。

ベイスターズもN高校も、当事者として課題解決を行うことで急成長の一端を担うことができ、達成感がありましたね。その経験があって、年齢も重ねてきたからこそ、今は経営やマネジメントへの興味が生まれ、今度はその観点での転職になっています。

−村田さんは副業も多くされているのでしょうか?

はい。ライフワークである「地方創生」をテーマに、オンライン副業をいくつかさせていただいています浜松市、湖西市、富山県の広報アドバイザーをしている他、地方のものづくり企業のPR・ブランディングの戦略立案に携わっています。

人生100年時代と言われる中、今は副業として行っていることこそ、本業の定年退職後にも続けていける仕事になるのではないかなと考えています。だからこそ、人生通して関心を持ち続けたいテーマである「地方創生」につながる仕事に限定して、副業では実稼働の多いアウトプット自体よりも、戦略・企画面での関わりにしています。

副業先である富山県の「おわら風の盆」

キャリアの悩みとは、幸せな将来のために必要な”生みの苦しみ”

−村田さんがキャリアの悩みを抱えているとき、どのように解決をされてきましたか?

まずは内省して、ある程度答えが見えかけたかなという頃に誰かに相談するようにしています。薄々自分でも気づいていたことを相手に指摘してもらえた時に、悩みに決着がつくような気がします。

−村田さんは、今も悩みを抱えていますか?

はい、たくさん笑。悩みの多い人生です。本業や副業、子育てなど様々な要素が絡み合って悩みが生まれていますが、ネガティブな悩みではありません。悩んでいる最中はもちろん苦しい時もありますが、これまでの経験からは、「晴れない悩みはない」と言えます。

悩みという言葉よりも「生みの苦しみ」という方が近いイメージですね。だから、これからの人生をより良いものに変えるための、必要な悩みだと思って楽しんでいます笑。

−今回は村田さんがカウンセラーとして相談を受ける側ですね。

副業・転職・留学・独立などを幅広く経験していますので、「ちょっとやってみたいけど、経験のある人が周りにいない」という方にとって、私の経験がお役に立てれば嬉しく思います。

−最後に、キャリアに不安や悩みを抱える社会人に向けてメッセージをお願いします。

悩みの最中にいる人はどんどん考え込んでしまいがちなので、人と話したり、幅広く情報に触れるのが良いと思います。自分の悩みと似た事例に出会うことができれば、何かのヒントになったり、何かが変わるきっかけになると思います。

キャリアの考え方に「山登り型」と「川下り型」があると言われます。目標を決めて一歩一歩進んでいくタイプと、目の前の仕事に一生懸命取り組んでいくタイプです。どちらが良い悪いではありません。キャリアとはその人が辿ってきた道や軌跡のことなので、次に進む方向を考えるためにも、まずは自分の歩いた足跡を振り返ることが重要です。その際に誰かと一緒に振り返ることで、自分では気づいていなかった強みとなる足跡が見えるものです。そして、誰かに悩みを話すことで、次につながる思いがけない視点や情報が見つかるものです。

私は副業・転職・留学などキャリアにまつわる多くのことを経験してきましたので、あなたがキャリアに悩んだ時の道標や水先案内人になれたら嬉しく思います。ぜひお話しましょう!